2016年5月1日

お気に入りの品々 その13 『ぼたもち開眼』

どちらかというと、華美で技巧をこらしたものよりも、薪の炎と手をつないだ、素朴な自然釉の焼物のほうが好みなのですが、『ウサギ酒』の記事で少しふれたとおり、見るからに立派な、ひと目で備前焼だとわかるものには、そこまで興味を惹かれません。
(「ひだすき」や「ぼたもち」や「ごま」など、指差し確認でもするように、頭の中で簡単に振り分けてしまうことが、あるいは残念なのかもしれません)

千葉の「へそ」にあたる長柄町(ながらまち)にも、備前で修業をされた陶芸家がいらっしゃいます。手つかずの森を開墾し、のぼり窯を築いたその地で、半年に一度、おおよそ二週間をかけて作品を焼き上げる、六地蔵窯の安田裕康(ひろやす)さんです。


まだ肌寒い三月の初め、最終盤にかかっていた窯焚きを見学するため、念のために軍手持参でお邪魔をしてきました。言うまでもなく、くたくたに疲れているはずなので、できるだけ質問は控えたかったのですが、温度計を横目に火の番をする安田さんに甘えるかたちで、いろいろと興味深い話を聞くことができ、幸いにも、そのこころざしの一端を垣間見ることができました。

当初は赤松の薪を遠方より取り寄せていたが、いまではできるかぎり県内から調達し、自分の手で薪をこしらえていること。また、いまだ格闘の最中ではあるが、森を開墾したさいに出てきた長柄の土を、ストックしてある備前の土とおりまぜつつ、この土地でしか生み出せないあらたな作品作りに取り組んでいること。

その話しぶりは、陶芸家のそれというより、日々鍛錬に余念のない、信じた道を邁進する修行僧のようです。(実際その容姿も、さっぱりとした丸坊主で、深みのあるテノールは、間違いなく読経がよく似合う)



お話のあと、登り窯のそばに併設されたギャラリーで、実際に作品を見せてもらったのですが、なかなか胸をおどらせるものがありました。もちろん、長いあいだ備前で修業をされ、一切の釉薬を使わない「焼き締め」であるので、色濃くその特徴が出ている作品も少なくありません。しかし時間をかけてよく見てみると、これまで知り及んでいた備前にはない親密な温かみが、そこはかとなくたしかに漂っているのでした。それは取り組まれている手仕事のたまものなのかもしれませんし、あるいは安田さんの人柄を知ることで生まれた、個人的な錯覚にすぎないのかもしれません。

大皿 28㎝


その答えをあらためて確かめるべく、三月下旬、ふたたび六地蔵窯を訪れ、野外にまでずらりと並んだ、焼き上がったばかりの作品群を見てきました。



備前焼の値段について、それほど明るくはありませんが、少なくとも六地蔵窯の「焼き締め」に、清水の舞台は必要なく、マメ皿、小皿、焦げの景色がたのしい中鉢と、三つほど包んでもらいました。



とくに意識したわけではなかったのですが、結果として前回から引き続き、「ぼたもち」のおかわりとなりました。あざやかな緋色やガラス状のごま垂れもないですが、おそらく買ったことに満足して、食器棚の奥で残念な思いをさせることはないはずです。日々食卓にのぼり、安田さんが登り窯のそばで淹れて下さったほうじ茶の素朴な温かみを、内に秘めた静かなる熱気とともに、ときおり思い出すことでしょう。


格闘の軌跡 しばしの休息

※余談ですが、本文中に混在する「修業」「修行」は、微妙にその意味が異なります。
 技の習熟と、心身の鍛練。形ある井戸掘りと、見えざる神への憧憬。