2016年9月24日

小野十三郎賞 受賞によせて

923日、大阪の朝日新聞社で最終選考会があり、詩集『九月十九日』が、第18回小野十三郎(とおざぶろう)賞を受賞しました。
姫路に暮らす実家の母と、詩集制作に関わって下さった三人の生みの母(オビ文の河津聖恵さん・表紙の玉川麻衣さん・編集の山岡有以子さん)に、さっそく報告。
皆、私以上に喜んでくださり、うっかり忘れそうになる心の居場所をあらためて実感する、実り深き日となりました。(もちろん一人で「バンザイ!」と叫んでもいた)

思い起こせば2012年、生まれて初めて書いた詩「青い意志」が、幸いにも部落解放文学賞の選者をつとめる金時鐘先生と高良留美子先生の目にとまることになり、こつこつ詩を書きためてきたのですが、それとは別に、ゴマすりでもおもねりでもなく、おそらく現代詩手帖の投稿システムがなければ、1冊に編(あ)めるまでの作品の質を保つことは難しかったはずです。
偶然の縁がいくつかあって、ふらんす堂から詩集を出版する運びとなりましたが(社長の名が母と同名で、私は元フランス料理人)、おおよそ一年にわたって、いくつかの詩を掲載して下さった現代詩手帖編集部には、深く感謝しております。ありがとうございました。

詩集の題名であり、表題作でもある「九月十九日」は、私の誕生日なのですが、その制作と前後して、いろいろな偶然を呼び寄せることになりました。詩誌掲載からちょうど1年後の、2015年の919日、詩集をつらぬく通奏低音でもある「声高なこぶしを振り上げぬ反戦詩」と呼応でもするように、参議院で「安保法案」が可決されたのでした。
そしてまた、これもちょっとした偶然なのですが、玉川麻衣さんが提供して下さった表紙の、脚立のてっぺんに立つ赤ん坊、玉川さんの友人のお子さん二人をモチーフにしているのですが、その兄である男の子の誕生日が、やはり919日なのでした。

そしてこれは、偶然というべきなのか必然というべきなのか、いまもってわからないのですが、ちょっとばかり因縁めいた、不思議な話があります。

まだ20代の半ば、フランス料理人を離れてすぐのころです。そのころ私は渋谷区の恵比寿に住んでおり、ミニバイクで渋谷の街に出かけることがちょくちょくあったのですが、東急本店の目の前、いまはなき「ブックファースト」にて、その出会いは訪れたのでした。
文庫本の棚から、何の気なく宮沢賢治の『注文の多い料理店』を手に取ったのですが、その最初の作品「どんぐりと山ねこ」の、山ねこからの「おかしなはがき」の冒頭に、やはり「九月十九日」の一文があったのでした。
なんだか偶然のうれしさもあって、さっそくその新潮文庫版の『注文の多い料理店』を購入したのですが、それから十余年、すっかり記憶も背表紙も色あせて、本棚の片隅で長い眠りにつかせることになります。(その間、日付の一致を取り入れた創作エッセーをブログに載せたり消したりの、ちょっとした関わりはあったのですが)

そして詩集の出版を機に、ひさしぶりにその偶然の一致を思い出し、ページをひらいてみたのですが、じわりとうれしくなる、あるつながりにふと気づかされたのでした。
私の詩集である『九月十九日』の、最後の収録作品「明日(あす)に生きました」は、このような一文で締めくくられています。

『産み落とされたばかりのただ一つの耳で
 銀河鉄道の汽笛を、遠く待ち望む』

もちろん狙ったうえで、その作品を最後に持ってきたわけではありません。そのような小細工を越えたところで、誰もが詩集を編んでいます。
ああ、そうだ、私が気づいてないだけで、あの日の山ねこが、今日までずっと導いてくれていたのだ。どっどど、どどうど。宮沢賢治が残した足跡を、この十数年、私はずっと青い風を背にして追いかけていたのだ。
と、私は今日ぐらい、真っ白な白紙の心にかえって信じてみたいと思っています。

最後になりましたが、小野十三郎賞の選考に関わった関係者の皆様、予備選考の先生方、そして本選考の金時鐘先生、倉橋健一先生、小池昌代先生、坪内稔典先生、本当にありがとうございました。

牛は急がず、立ち止まらず。

森水陽一郎