2016年11月9日

ギャラリー 『バトー・ルビジノ』 終焉と萌芽の夜

人の生き死にをたとえに出すまでもなく、物事には始まりと終わりがあり、そこには個別の物語の旋律がたしかに流れている。
おおよそ10年ほどの長旅を、118日に終えた、彫刻家・前川秀樹さんのギャラリー『バトー・ルビジノ』、私はほんの数時間その座席に乗り合わせたにすぎないが、旅の一員として戻りのない時間の矢を共有できたことが、素直にうれしい。


グーグルマップにも出てこない、茨城県は霞ヶ浦のそばに位置する、農具小屋をセルフビルドした個人ギャラリー。ひと月にほんの数日だけ解放され、カフェとしてお茶が提供され、前川さんの彫刻作品を納得がいくまで堪能できる。そのような場所があることを知ったのは(つまり前川さんの存在を知ったのは)、ほんの半年ほど前で、それからというもの、決して熱心とはいえないのだが、遠くからブログを追いかけてきた。

実際に読めばすぐにわかると思うが、鉱石の分野においては、下手な学者よりも博識で、その文章には、軽やかな詩の風が吹いている。また、現代の神話とも形容できるその作品群には、深遠な物語性と、幻想の余白がはらまれており、美しさの一言では片付けることのできない、不死の万華鏡がたしかに見てとれる。無数の引き出しのついた「感情の薬棚」がそこには待っている。

いつか訪れてみたいと思いながら、はや数ヶ月、その知らせは尾を引く流れ星となって、ふいにやってきた。
11月を最後に、ルビジノを閉鎖』
片道3時間かかろうが、受賞の余波で、めずらしく忙しかろうが、まったく関係がない。実際にそこに足を運ぶことでしか感じられない歳月の匂いがたしかにあるはずだ。細部にやどるリアリティーの息づかいが、そこには隠れているはずだ。おそらく最終日だと、常連さんがいないはずがないので、少しばかりおっかないが、放っておかれたらそれもそれ、とにかく行ってみよう。


というわけで、道すがら牛久大仏、取材をかねて予科練平和記念館に立ち寄り、昼下がりにルビジノにたどり着いたのだが、案の定、格子の窓ごしに、常連さんらしき談笑をする姿が見てとれ、いかにも立ち入る隙なしといった感じだったのだが、それがかえって、一人でのんびりと(ときどき奥さまに相手をしていただきながら)、隣のスペースに展示された作品群と向き合えることにつながった。

その後、ストーブをかたわらに、前川さんとご友人のお話を聞きつつ、一人黙々とコーヒーを飲み、もしよければと出して下さったおいしいどら焼きを頬張ったのだが、そこはやはり関西人、しばらく経ったころには、ぐいぐい話に割り込んで、いつの間にか前川さんを独り占めするようなあつかましさで、あれこれ質問攻め、ときどき放し飼いのオーストラリアン・ラブラドゥードル、ニハルさんに、おろし立ての革靴をぺろりとやられつつ、最後にはタイル貼りのカウンターをかたわらに、コーヒー片手の立ち飲みスタイルで、地域をこえて通底する昔話の共時性や、中国の漢方にまつわる未知の話などを、いろいろ聞かせてもらったのだった。


ほんの2時間ほどお話しさせてもらっただけだが、前川さんを一言であらわすと、ずしりと重みのある「胆力の木」という印象だ。こちらからの言葉の風(揺さぶりを含む)を、その梢でしっかりと受けとめつつ、芯の幹はまったく揺るがない。かといって、理論武装の矛を振りかざすような、自分を変に大きく見せるようなふるまいにはいたらない。会話の風上に立ちたがる人間にありがちな、自分の得意分野に話の舵を切るような力業(ちからわざ)もない。あくまで自然体の、聡明な深井戸だ。

もちろん私が、「お客」の立場だったこともあるのだろうが、不思議と私は、ルビジノを作った前川さんが、その後のルビジノの日々によって、今日(こんにち)の前川さんが作られていくような、逆転の育(はぐく)みをそこに見るのだった。

午後五時。ルビジノを包み、見守ってきたイチョウの庭が、夜の闇に覆われたその終焉の日、つかの間の旅人である私は、前川さん夫妻に見送られながら、ささやかなともしびの萌芽(ほうが)を、そこに感じ取っていた。ほどなくしてルビジノは、もとの農具小屋へと還っていくだろうが、閉じられたその鍵穴からは、前川さんと千恵さん、二人の芸術家が紡いできた光の糸の、ほのかな余韻が、これからも放たれ続けるだろう。

来年の5月、南青山のDEE'S HALLにて、またあらたに、旅のつづきが始まる。